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歴史的意義
1.日本帝国主義による侵略
日本は1860年代の明治維新を前後にして急激に近代化の道を歩むようになり、資本主義になったことで、新しい商品市場と原料の供給地が必要になり、朝鮮侵略の計画を立てて行った。
それにしたがい、1875年に雲揚号事件を起こして武力で開国を強要し、1876年には「韓日守護条約」を締結することで、韓国侵略をための足場を整えた。
日清戦争と日露戦争を起こして勝利を収めたことで、韓国での政治・軍事・経済上の優位を国際的に認められた日本は、1904年に「韓日議定書」を、1905年には「乙巳勒約(第二次韓日協約)」を締結し、相次ぎ1906年には統監府を設置して韓国を実質的に支配し始めた。続いて1907年にはハーグ密使事件を口実に高宗皇帝を強制的に退位させ、「丁未七條約(第三次日韓条約)」を強制し、朝鮮の軍隊を解散させた後、立法・司法・行政の全般にわたり統治権を行使した。最後の段階としては1910年8月22日、合併条約を締結して韓国の国権を強奪した日本は、朝鮮総督府を設置して韓国に対する殖民統治を断行した。

大韓帝国の国亡日誌
大韓帝国の国亡日誌
1897年 高宗 大韓帝国宣布
1904年 日露戦争中に韓日議定書を締結したことで、日本帝国主義による 韓国内政干渉が本格化する。
1905年 丁未七條約(第三次日韓条約)の締結で、外交権を奪われる。
1907年 ハーグ密使事件で高宗強制退位後、純宗即位
丁未七條約(第三次日韓条約)により、行政・司法権を奪われ、
軍隊を解散させる。
軍隊の解散で、義兵戦争が本格化する。
1910年 国権を奪われる。


2.経済収奪の現場
日本帝国主義による植民地経済政策は、朝鮮の経済構造を収奪しやすく再編する方向に推し進 められた。その中でも中心となったのは農業部門で断行された「土地調査事業」で、日本帝国 主義はこれを通じて韓末以来違法で侵奪してきた日本人の土地所有を法的に認め、農地の約 40%を含む広大な土地を国有地に編入させることで、日本資本の土地侵奪を促した。
また、林野調査事業を断行して全林野の60%を国有林に編入させ、農業政策部門においても 安い朝鮮の米と工業原料を収奪することに重点を置いた。その他にも金融を統制し許可制の 会社令を実施することで、民族企業の成長を抑圧した。それにより民族資本家たちは大きな打 撃を受けて零細的な企業経営に留まり、農民は祖先代々の土地を奪われ、貧農、小作農に転落 して火田民(火田を耕作する農民)になるか、満州などへ移住するなど、切迫した状況に陥っ た。

3. 日本帝国主義時代の教育
日本帝国主義の教育政策の目標は、わが民族を永遠に抹殺し、日本の下等国民にしようとすることにあった。そういう理由で韓国人に高等教育はできる限りさせず、初歩的な知識と日本語の習得中心の教育のみを受けさせ、民族意識と独立思想に目覚めることができないようにし、技能・技術を熟練させる実業及び技術教育を奨励し、最小限の知識と技術のみを身に付けるように企てた。
しかし、私立学校と宗教系の学校、改良書堂(寺子屋)、講習所、夜学などは、少数ではあったが、民族意識の高揚に大いに貢献した。そして多くの愛国の志士たちがわが民族の文化を守るために努力しており、特に国語と国史の研究を行い、これに関する教育は、民族伝統の自覚と民族主体意識を覚醒させる立場で行われた。
第1次朝鮮教育令草案本(1911.7.12)
この教育令は職業教育に重点を置き、師範教育の項目が削除されているので、日本帝国主義が韓国人を単純な植民地の奴隷に転落させようとした下心を実証させている。

韓日学生の就学率(1925)
韓国人は日本人に比べると、教育を受ける機会の面においてひどい差別を受けており、その差別は、専門学校、大学などの高等教育機関に上がるほどより一層深まった。

普通学校の国史教科書(1932)
「皇国史観」に基づいて叙述された日本帝国主義の歴史教科書で、日本の歴史を中心に日本と韓国の歴史について叙述した。

普通学校の地理教科書(1934)
日本帝国主義の地理教科書で、韓国を日本の一地方と規定した。
制服を着ている教師による皇国臣民教育の光景 
日本帝国主義は韓国人を日本人に同化させ、忠誠心に満ちている善良な皇国臣民に作り上げようとした。
日本語の使用を強要したポスター
日本帝国主義は、韓国語を使用することを禁止させ、日本語を使用するように強要した。

4.日帝強占期(日本帝国主義による強制占領の時期)における主な民族運動
韓国民族の自尊心は日本帝国主義による銃刀の前であえなく崩れ落ちたが、国を取り戻すため の独立運動は絶え間なく続けられた。日本帝国主義の弾圧のために海外に亡命した独立運動家 たちは、海外に独立基地を作って独立軍を編成して日本軍と度々戦闘を繰り広げ、国内に残っ ていた愛国の志士たちは国外の勢力と連合したり、独自的な秘密結社を組織して日本帝国主義 に対する抵抗を止めなかった。農民と労働者たちは生存権を守るために、争議・罷業を起こす など、積極的に日本帝国主義に立ち向かって戦った。

2.8独立宣言
1919年2月8日、日本の東京で在日留学生たちが独立宣言書を発表し、日本帝国主義の侵略行為を糾弾し、独立のために最後の一人まで闘争すると宣言した。2.8独立宣言は3.1運動の発端に、直接影響を与えた。

3.1運動
1919年3月1日を期して全国民が炎のように燃え上がり、抗日闘争を繰り広げることで、韓民族の独立の意志を闡明した。3.1運動は国内では日本帝国主義による暴圧的な無断政治を変化させ、国外では中国、インドなどのアジアの被圧迫民族の解放運動に影響を与えた。

6.10万歳運動 
1926年6月10日、朝鮮の最後の王の純宗の葬儀の日、ソウルの鐘路一帯で一斉に檄文が配られ、万歳示威が起きた。この非常に大きな運動は学生と社会主義系の人々によって事前に緻密に準備されたもので、間もなく全国的・全民衆的な抗日運動に発展した。

勤政殿に揚げられた日章旗
1910年8月9日、帝国主義の日本は、韓日合併公約を公布した後、慶福宮の勤政殿に日章旗を揚げ、国権侵奪を象徴化させた。

高宗、純宗、そして総督府の幹部たち(国権侵奪の直後)
中央が高宗、その右側が純宗、高宗の左側が英親王、その隣が寺内総督

5. 光州学生独立運動と新幹会
6.10万歳運動以降、1927年2月に非妥協的な民族主義勢力と社会主義勢力が共に参加する国 内最初の民族主義と社会主義が連合した団体である新幹会が創立された。
新幹会は急速に勢力を増していき、1929年の初めには支会が144ヶ所、会員は3万9千人余 りに達した。一方、1927年5月には新幹会の姉妹団体である槿友会が創立されて64ケ所の 支会が設置され、各地域の女性運動を指導した。新幹会は合法的な地域別巡回講演を開催して 大衆に植民地支配の本質を告発し、民族独立の当為性を力説し、各地域の労働・農民・青年運 動を指導し、全国で展開されていた労働争議と小作争議を支援した。また、光州学生独立運動 を全国的な抗日運動に発展させることにも貢献した。このような努力にもかかわらず、日本の 弾圧と左右の分裂によって新幹会は1931年5月に解体された。

新幹会の創立に関する報道記事 
初代会長に朝鮮日報の社長である李商在が選出された。 (朝鮮日報1927. 2. 17)

新幹会の光州支会
新幹会の光州支会は1927年10月に設立された。光州学生独立運動が起きた当時、闘争を効率的に指導し、全国に拡散させることに大きな役割を果たした張錫天、姜錫元、鞠埰鎮は、新幹会の光州支会の会員で、張錫天と鞠埰鎮は幹事を歴任した。

6. 学生運動の成長と抗日同盟休学闘争
日本帝国主義時代の学生層は相対的に先進的な知識階級であり、労働者と農民などの他の社会 階層よりは組織化することが簡単だったので、常に民族運動の前面で活動を行った。それ故、 日本帝国主義時代の3大民族運動だった3.1運動、6.10万歳運動、光州学生独立運動はすべ て学生たちが主導したのである。純粋で情熱的な学生たちは、植民地差別教育に対して敏感に 感じて不満を持っており、社会・経済的疲弊を経験しながら日本帝国主義による植民地統治に 対して矛盾を全体的に認識するようになった。そうして教育の差別と植民地支配の矛盾を克服 するために、さらにそれに留まらず一方進んで民族の解放のために、秘密結社である読書会を 組織し、同盟休学を行い、学生団体を組織し、啓蒙運動などを行いながら抗日闘争を積極的に 展開した。

光州学生独立運動の前奏になった抗日同盟休学闘争
1929年代から加熱し始めた同盟休学闘争は、当時の学生たちが決行した抗日独立運動の一つの形だった。同盟休学闘争は全国のほとんどすべての学校で普通に行われ、その背後では常に秘密結社が指導を行っていた。 光州地域でも1924年から光州高等普通学校、光州農業学校、光州師範学校などで、同盟休学が活発に展開され、組織的に抗日の力量を高めて行った。

7. 学生秘密結社
1920年代後半に現れる学生運動のもう一つの変化は、秘密結社の台頭だった。治安維持法と6.10万歳運動をきっかけに学生団体に対しての弾圧が厳しくなると、学生たちは同盟休学闘争を展開すると同時により積極的かつ長期的な抗日闘争を目的に、秘密結社を組織するようになった。学生秘密結社は全国的に二つの形で組織されたが、一つは各学校単位で結成された読書会で、もう一つは読書会を基盤に地域単位で組織された秘密結社だった。秘密結社をはじめとする学生団体がソウルの中心から離れて地域単位で組織されるようになったのは、活発になった同盟休学闘争と密接な関連を有している。主に学校単位で同盟休学を展開しなければならない現実的な必要性から、全国的な組織よりは学校や地域単位の結束が効果的だからだった。

1920年代半ばの代表的な学生運動
1920年代半ばの代表的な学生運動
公開組織 朝鮮社会科学研究会(ソウル)
非公開組織 学生ヤチェーイカ
朝鮮学生革命党(ソウル 1927.3結成)
朝鮮学生前衛同盟(ソウル 1927.10改称)
親友同盟(大邱 1927.11 結成/1929年下半期に解体)
醒進会(光州 1926.1 結成)


この中で光州地域の秘密結社である醒進会は、読書会中央部は光州地域の学生運動を主導しており、光州学生独立運動を組織的に拡散させることに重要な役割を果たした。

醒進会
醒進会は光州高等普通学校と光州農業学校の学生たちが中心になって組織した秘密結社である。1926年11月3日、光州高等普通学校の学生だった王在一、張載性、光州農業学校の学生だったパク・インセンなどは、植民地教育に反対し、主体性を確立するための組織体が必要だということで意見の一致を見て、醒進会を結成した。
会員たちは朝鮮の独立のために秘密裏に団結することを決議し、社会科学を研究し、独立を成し遂げるための実践方法を話し合いながら民族意識を高めていった。醒進会は活動を始めてから5ヶ月目の1927年3月の下旬、秘密が漏れる恐れがあったため、表向きでは解体し、その後にも連合集会はなかったが、各学校単位で活動する形で会合を続けた。

少女会
少女会は光州女子高等普通学校の読書会としてすでに1928年11月初旬に結成された団体である。会員たちは光州師範学校の裏山で集まって少女会を組織し、毎月に1回集まって社会科学を研究することに決めた。会員は張載性の妹である張梅性をはじめ、朴玉連、高順禮、張慶禮、岩城錦子、南俠俠、朴采熙、朴賢淑、金錦嬿、金貴先などであった。

読書会
1929年6月半ば、東京中央大学予科に留学中だった張載性が学業を中断して光州に戻り、光州高等普通学校、光州師範学校、光州農業学校の学生たちと楊林里にある金基權の自宅に集まって読書会中央部を結成した。その後、各学校別に読書会が組織され、民族文化と社会科学を研究し、民族意識を高める活動が活発に行われた。読書会は学生たちを統率して指導する組織として発展していき、これは結局光州学生独立運動を拡散させる堅固な土台となった。