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歴史的意義
1. 1.光州学生独立運動の爆発 
1929年10月30日、光州から羅州に通学していた韓国人学生たちと日本人学生たちの間で 集団の争いが起きた。光州中学に通っている日本人の学生たちが韓国人の女学生をからかうの を見た光州高等普通学校に通っている韓国人学生が抗議をするうちもめごとになったが、両側 の学生たちが一斉に加勢して大きな喧嘩に発展したのだのである。
日本帝国主義による収奪と蔑視を身をもって体験しながら育った韓国人の学生たちと、日本帝国主義の殖民権力の保護下で傲慢極まりなかった日本人学生の間では、常に葛藤と摩擦の要因が潜んでおり、これが積み重なって結局爆発してしまったのだ。.
事件の経緯
- 1929年10月30日の午後5時30分、光州から羅州に行く通学列車が羅州駅に到着すると、 光州中学に通っている日本人の学生たちが出口から出ながら光州女子高等普通学校の学生であ る朴己玉、岩城錦子、李光春の髪の毛を引っ張りながら朝鮮人云々とからかった。それを見た 光州高等普通学校の学生だった朴準埰(朴己玉の従兄弟)が彼らと喧嘩になり、すぐ50余人 の日本人の学生たちと30余人の韓国人の学生たちの集団の争いに発展した。韓国人学生の数 は少なかったが、士気の面では優勢であった。しかし、日本の警察は韓国人の学生たちを殴り、 偏頗的に解散させた。

- 10月31日、光州行きの通学列車で騒ぎが起きたが、大きな衝突はなかった。しかし、午後に羅州行きの通学列車の中で再び争いになり、日本人の車掌が朴準埰と数人の韓国人学生たちを、ほとんどが日本人乗客である2等室に連れて行き、乗客たちと一緒に侮辱する言葉を浴びせながら非難した。

- 11月1日の午後、羅州行きの通学列車が出発する直前、光州中学の30余人の学生たちが光州駅に押しかけてくると、20余人の光州高等普通学校の学生たちが列車から降りて改札口を挟んで対峙したが、両校の教師、駅員、出動した警察たちが解散させた。 

- 11月2日、韓・日学生たちの衝突はなかったが、光州市内は一触即発の緊張感が漂っていた。韓国人と日本人学生たちの両方が複数で群れを成して歩かなければ、いつ、どこで被害に合うかうわからない険悪な状況だった。

2. 光州での第1次示威運動 
羅州駅の事件後、韓国人学生と日本人学生の衝突は警官や教師の監視下で続いていたが、それが決定的に爆発したのは11月3日だった。この日の午前11時頃、光州駅で光州高等普通学校の学生たちが光州中学の日本人学生たちと衝突したのに続き、光州農業学校、光州師範学校の学生たちが合流して街頭示威を敢行した。
当時の新聞は11月3日の示威を10年前の3.1運動が起きて以来始めて見る大きな事件として報道した。これは光州地域のみならず他の地域の人々にも、この日の大規模な示威が大きな事件として見えたことを意味する。世論が沸騰すると、総督府当局も事態の深刻性を悟り、報道を禁止させた。 それから民族意識に基づく、民族の解放と植民地の奴隷教育、民族同和教育を撤廃させるための学生たちの抵抗は、同盟休学闘争から一段階レベルアップして集団的な街頭闘争として発展した。
- 11月3日- 
午前:明治節の記念式で沈黙で抵抗 
午前11時頃:須奇玉町の郵便局の前で決闘になる。
午前11時頃:韓日学生の集団衝突により、光州駅一帯は阿修羅場
正午頃:講堂に集まって事後対策を話し合うが、満場一致で示威を行うことに決める。
午後2時頃:学生たちは3時間ほど光州市内を一周しながら示威行進
午後5時頃:解散後、各方面ごとに集団を作って帰宅
午後7時:主導者の検挙が始まる。
- 11月4 日-
- 光州高等普通学校と光州中学に三日間の休校令が出される。
- 警察は4日から11日まで70余人の韓国人学生を検挙して60余人を拘束、検事局に送致。


学生示威、光州市民たちも加勢した大規模な抗日闘争へと拡散…
示威隊列は上級生たちが先頭に立ち、下級生たちはその後について行き、金向南、金普燮、金相奐、康潤錫、金茂三などの体が大きい学生たちが先頭で導いた。
校門の外にはすでに崔泰周の連絡を受けた光州農業学校の学生たちが待ち受けていたが、拍手とともに歓呼しながらで示威の隊列に合流し、その勢いは天を突くほどだった。
示威の行列が通り過ぎる時、市民たちは角材や薪を渡しながら歓呼し、ある人は売るために持ってきた10本の桜の木の杖を投げて渡してくれたりした。光州高等普通学校の学生たちにホトック(中国式パンの一つ)売るおじさんは、貧しかったにもかかわらずホトックを竹篭にいっぱい入れて持ってきてただで配り、柿売りは柿を、お餅売りはお餅を配りながら学生たちの義に満ちた大きな行動に声援を送った。

日本帝国主義、休校、検挙、報道禁止令などで弾圧 
学校側は11月4日から六日間、休校することに決めたが、その間に警察側は48人の光州高 等普通学校の学生、11人の光農業学校の学生、5人の光州師範学校など、合計72人を検挙し た。その中で39人の光州高等普通学校の学生、1人の光農業学校の学生を刑務所に収監し、 暴力行為など処罰に関する件、保安法違反などの罪名で起訴するに至った。
それと同時に総督府は11月13日から12月27日まで、光州学生独立運動に関して報道することを禁止させた。
それは学生示威が拡散していくことを防ぐためだったが、報道が統制されるようになると、かえって流言蜚語が全国に広まって行き、他の地域の人々と学生たちを刺激し、結局全国で示威が起こる一つの原因になった。

3.光州での第2次示威運動 
11月3日の抗争に驚いた日本帝国主義は、10日までの休校令を出した。11月11日に登校が 始まり、12日には学生たちは再び大規模な示威を敢行して日本帝国主義による弾圧と不公平 な仕打ちを非難し、拘束された学生たちの釈放を要求した。日本帝国主義の武装警察庁の極め て厳しい警備にもかかわらず2次示威が成功できたのは、1920年代の半ば以降、同盟休学闘 争と秘密結社活動で積み重ねてきた学生運動の組織的な力量があったからだった。光州での2 次示威は、学生闘争指導本部を結成して組織的に展開することで、単純な集団的街頭闘争の段 階を越えて目的意識がある政治闘争・大衆闘争へと発展した。そしてそれは全国的な抗日運動 に進む始発点でもあった。
- 2次示威を行うための準備過程 -
11月4日と5日、張載性は光州社会・青年団体の幹部たちに会ってより強力で組織的な闘争の展開と、全国的な学生示威に拡散させることを決意する。

11月7日、ソウルから下りてきた夫鍵、權遺根などと光州での示威を全国に拡散させる方法を話し合う一方、張載性は各学校の読書会の組織を点検した。

11月10日、朴己錫の自宅で光州高等普通学校、光州農業学校、光州師範学校の3校の代表たちが集まって12日を示威を決行する日に決める。

11月11日、4種類の檄文を作成し、呉快一が朴己錫の自宅で約1000枚の檄文を印刷


光州刑務所に向かってまた大規模な示威を敢行、11月12日の授業が始まる鐘の音を信号に…
11月12日、午前の授業が始まる鐘が鳴ると、光州高等普通学校の学生たちは一斉に校門を蹴っ飛ばしながら市内のほうになだれ込んだ。学生たちは檄文を配り,掛け声を発しながら市街地を練り歩き、光州刑務所を目標に進撃した。
途中で光州女子高等普通学校と光州師範学校の前で合流するように呼び掛けたが、事前に連絡を受けた教職員たちの制止により願いは叶わなかった。
光州農業学校の学生たちもやはり「鉄窓で呻くほど苦しんでいる学友を救おう」という掛け声を叫びながら示威行進を行ったが、光州高等普通学校の前で強制的に解散させられた。

- 2次示威の略図- 
午前:明治節の記念式で沈黙で抵抗 
午前11時頃:須奇玉町の郵便局の前で決闘になる。
午前11時頃:韓日学生の集団衝突により、光州駅一帯は阿修羅場
正午頃:講堂に集まって事後対策を話し合うが、満場一致で示威を行うことに決める。
午後2時頃:学生たちは3時間ほど光州市内を一周しながら示威行進
午後5時頃:解散後、各方面ごとに集団を作って帰宅
午後7時:主導者の検挙が始まる。
- 2次示威行進の道順-
- 光州高等普通学校→須奇玉町郵便局→光州女子高等普通学校→光州師範学校→弓洞→光州刑務所(強制的に解散)

- 光州農業学校→光州高等普通学校(強制的に解散)


2次示威の後にも白紙同盟、3次示威計画などで抵抗 
第2次示威運動以降、光州地域は多くの学生と社会団体の幹部たちが拘束されたために小康状態に入ったが、残っていた学生たちは白紙同盟などを行いながら根気強く闘争を行った。光州高等普通学校の学生たちは、1930年1月9日の白紙同盟により17人が退学させられ、16日の第3次示威計画がばれて48人が退学させられるなど、無実の罪で悔しく処罰を受け、在籍中の640人の2,3,4年生のうち、卒業した学生の数は160人に過ぎなかった。光州女子高等普通学校でも白紙同盟により15人が退学になった。光州スピア女学校でも大々的な示威運動を起こそうと計画をしたが、発覚され多数の主謀者が検挙され、11月31日まで無期限の休校に入った。
日本人女学校である光州高等女学校に通っていた7人の韓国人学生のうち、チャ・インヒ、カン・ジョンミン、チェ・ゴン、ジョン・ソジョンなどの4人は声明書を発表し、自ら学校を辞めた。

背後の秘密結社、正体を見破られ200人が拘束される。
示威による拘束者の取調べ過程で各学校にあった秘密結社のことがばれて、醒進会、読書会、少女会などに関わった学生たちが翌年の1月まで相次ぎ検挙された。さらに呉快一、兪致五、林周弘などは東京で逮捕され韓国に連れて来られた。この中で拘束された学生は200人余りだったが、これは当時光州地域の中等学校の学生総数である1000余人の5分の1に達するものだった。

4. 全国に拡散
光州学生独立運動は一番先に近隣の全羅南道地域に広がり、青年同盟、新幹会、槿友会などの社会・青年団体と連携して全国に急速に波及された。ソウル地域の学生たちは光州学生独立運動に同調し、1929年12月の初旬から1930年の半ばにわたり2回の大規模な学生示威を繰り広げることで、学生示威を全国に拡大させるきかっけを作った。
1929年12月初旬から学生示威は本格的に全国に拡散され、開城、仁川、元山、平壌、咸興、公州などの主要地方都市を中心に広がった。1930年1月の半ばからは都市地域のみならず、邑、面単位の地域にまで拡散され、普通学校の学生たちが参加した。闘争の形も試験拒否、白紙同盟、同盟休学、檄文撒布 、構内示威、街頭示威などと多様になり、日本植民地の支配権力と前面衝突をすることで、民族の独立獲得を主張するに至った。
学生たちの闘争は国内に留まらず海外にまで波及され、満州、日本をはじめ、沿海州、米州地域も呼応し、名実ともに3.1運動以来の最大の抗日運動へと昇華した。
全羅南道地域に早い速度で拡散し、近隣の木浦、羅州などに示威のことが伝わる…
日本帝国主義は報道の統制のみならず、人や手紙を利用しての連絡までも厳しく監視し、光州示威のことが他の地域に伝わることがないようにした。しかし、近隣の羅州、木浦、咸平などの全羅南道地域の学生たちは人づてに事件の経過を詳しく伝え聞くことができ、光州学生独立運動に呼応するために示威を繰り広げて行った。彼らは拘束された学生たちの釈放を要求し、植民地統治の拒否、祖国の独立と解放を叫んだ。

ソウルでの1,2次示威運動、京城帝国大学を筆頭にソウルの各学校で檄文撒布
光州学生独立運動は12月に入って運動の中心舞台がソウルに移り、一部は地方都市に波及して行った。12月2日の夜と12月3日の夜明けの間に、京城帝国大学はじめ、ソウル市内の主な専門学校と中学で檄文が撒布された。この檄文撒布は光州から上京してきた張錫天、姜錫元などが、各学校の読書会幹部たちと秘密裏に連絡を取り合って敢行したものだった。日本帝国主義はソウルの要所ごとに騎馬警察を配置するなど、強力な弾圧と準備を行ったが、京城第2高等普通学校の同盟休学を皮切りに学生たちの抗日闘争の火はどんどん燃え上がった。2日から13日まで展開された1次示威と同盟休学闘争に合計1万2千人の学生が参加し、その中で1,400人が逮捕された。
2次示威は1939年1月15日から17日の間に、30校で3,000人余りの参加して行われたが、1次示威同様連合闘争の形で組織的に展開された。

全国で同盟休学、示威が相次ぐ、報道禁止の解除により学生示威事件の真相が全国に知れ渡る
2回にわたるソルでの学生示威は、光州学生独立運動が全国に拡散していく決定的なきっかけになった。それとともに12月28日に報道禁止が解除され、光州での学生示威とソウルをはじめとする各地域で起きた闘争の真相が全国に広く知られるようになった。
学生示威運動がソウルと全羅南道以外の地域で初めて起きた場所は公州で、ソウルで第1次示威運動が行われてから本格的に拡散し、ソウルから近い開城をはじめとする仁川、元山、平壌、咸興、釜山、春川などの主な地方都市を中心に拡散していった。
学生たちの闘争は主に同盟休学の形で行われており、早期に学校が休みに入ってことで、小康状態となった。1月の初旬に学校が始まるようになると、再び運動が始まり、飛躍的に発展した。

海外での示威運動、中国、日本、ロシア、米州地域などの海外で学生運動を支持
光州学生独立運動は国内に留まらず海外にまで波及して活発に展開された。中国では独立運動が活発だった間島をはじめ、吉林、ハルビン、上海、北京などで、日本では東京、大阪などで光州学生独立運動に同調して檄文撒布、集会、万歳示威が相次いだ。ロシアと米州地域でも運動の真相を新聞に掲載したり、示威学生たちに対する日本帝国主義による弾圧を批判し、光州学生独立運動を支持した。

5.法廷闘争 
光州学生独立運動の関連者として光州で拘束された学生は260人だったが、この中で保安法 関連49人、醒進会関連38人、読書会関連90人、少女会関連11人など、合計173人(15 人は保安法と読書会の両方関連)が、予審裁判にかけられた。
日本帝国主義は事件を縮小させてきた既存の態度から脱し、光州学生独立運動を共産・社会主 義者と彼らか作った秘密結社がけしかけて起きた事件に仕立て上げた。それは学生運動を共 産・社会主義運動に仕立て上げることで全国に拡散することを防ぎ、強硬な弾圧を合理化する ための措置だった。
それを立証するように173人の拘束者のうち、単純示威主導者である保安法関連の49人のみが事件の3ヵ月後の1930年1月29日に予審が終結され、醒進会、読書会、所為叙階などの治安維持法違反事件は、事件が起きて9ヶ月が過ぎた1930年7月になってようやく予審が終結された。それは獄中での拷問と過酷行為はさておいても、植民地下での人権蹂躙がどのようなものだったかを物語っている。
全国の各地で大物弁護士たちが、自ら進んで弁護をするために法廷に駆けつける
この事件の公判には金光卨、金在千、宋和植、柳福永、魚允斌、李政相、ジ・ヨング、宋台煥などの光州に居住する弁護士たちと、金炳魯、李昌揮、カン・セヒャン、李仁、韓相億、金完燮など、全国各地から大物弁護士たちが自ら進んで光州に来て弁論を担当した。
示威学生たちの無罪を主張する弁護士たちは、示威運動と関連して中心となる罪名である「不穏文書内容」が、日本の無産政党が掲げる選挙の標語より穏健なものであると主張するなど、学生たちの無罪を強く主張した。しかし裁判部はそれを受け入れず、学生全員に禁固または懲役刑を宣告した。
醒進会、読書会関連の人に特に高い刑を求刑した理由は?
光州学生独立運動が全国に拡散し、遠くは間島にまで波及され、3.1運動以来最大の抗日運動になったことに対する見せしめでもあった。日本帝国主義は学生運動をきっかけに学生のみならず労働者、農民などの植民地の民衆によって、民族解放運動が高まっていくことを恐れた。それために、この事件を共産主義運動に仕立て上げ、醒進会、読書会を共産主義の背後組織に仕立て上げようとしたのだ。

6. 獄中闘争 
光州学生独立運動と醒進会、読書会、少女会事件などで検挙・投獄された学生たちと社会団体の指導者たちで、光州刑務所は超満員になった。投獄された学生たちは獄中でも日本帝国主義の裁判の遅延と拷問、過酷行為に対抗し、集団または個人で、掛け声、断食などの様々な方法で闘争を行った。1939年3月1日、収監された学生たちは監房の壁を叩く信号に従い一斉に「独立万歳」を叫んだ。7月7日には金普燮の声が大きいと言いながら振り回した看守の大剣に顔面を刺されると、刑務所の五つの建物と150の監房に入っていた数百人の学生と一般の囚人たちが、3日間独立万歳を叫びながら立て篭もった。学生たちが獄中示威を行う時には、市民たちもまた刑務所のほうに押しかけて行き、ひどい弾圧を中止してくれるように訴え、獄内闘争に呼応した。日本帝国主義の刑吏の暴悪無道な暴行を受ける度に、収監された学生たちは怒りに身を震わせながら亡国の悲しみを自らの命をもって抗うために断食闘争を試みたが、度重なる断食によって数十人の学生が瀕死の状態に達すると、慌てた刑務所当局は肛門を通じて強制給食を行い瀕死の学生たちを蘇生させ、宥和策として学生たちの要求条件を受け入れることもあった。
獄中手記Ⅰ- 監房の中で花咲く民族の魂
日が経つにつれ、学生収監者の数が激増し、監房の中は立錐の余地もなく超満員になり、挙句の果てには武徳殿も臨時監房として使用するようになった。拷問のやり方も様々だった。棍棒で殴るのは日常茶飯事なことで、薪の木を足の間に挟んでおき、そのまま土下座をさせた後、その上から靴を履いた足で踏みつけたり、手の爪の下を鋭い錐で刺したりした。またお腹が破裂するほど水を飲ませたり、粉唐辛子の水を鼻から注ぎ込んだり、両手を後ろ側で縛り上げてから天井にぶら下げる、所謂飛行機拷問というものも受けた。その中でも最も苦しかったのは電気拷問だった。素っ裸にさせて冷たい床に寝転がせ、動くことができないように四肢を縛り上げてから水を浴びせて体に電気がよく通じるようにしておき、その後、バッテリーの電流を体に繋げると、その苦痛は実に言葉では言い表せないほど苦しいものになった。このような拷問を受けて体を引きずりながら監房に戻っていく同志たちの蒼白な顔を見る時、私たちの幼い心は張り裂けるようにつらかった。どうして人間の顔をして同じ人間をあんな状態まで陥れることができようか。これはずべて国のないわが民族の悲劇ではないだろうか。それはまさに見るに忍びない生き地獄だった。
刑務所の外で示威学生たちが叫ぶ「独立万歳」という音が聞こえると、私たちも監房の中でそれに応じて万歳を叫んだ。それを看守に見つかると連れて行かれて死ぬほど拷問を受けた。しかし、そのようなことが何回繰り返されても、私たち学生の義気は挫けられることはなかった。最も感動的だった場面は、拷問を受けて瀕死の状態になって戻ってくると、同じ監房の学生たちが我先に傷の手当てをしてくれ、肉親以上の同志愛を発揮してくれたことだった。それなまさに涙なくして見ることができない情景だった。拘束されてから2週間目に私は光州刑務所に移監された。真夜中にまるで干しスケトウダラのように1つの手錠に二人ずつ繋がれ、それを1本の紐に串刺しにされ引きずり回された。刑務所に移監されてからすぐに私たちは青い囚人服に着替えさせられ、未決囚の番号を胸につけてから監房に入れられた。それぞれの監房には先に入った学生たちで立錐の余地もなかった。今も生々しく思い出されることは、その時に上級生たちが自分たちは立ったまま夜を明かしながら幼い私のために席を譲り、楽に寝ることができるように面倒を見てくれたことである。天気が寒くなると着ていた服を脱いで私にかけてくれ、私を抱いて体温で暖めてくれたりもした。振り返ってみると、その時の上級生たちの後輩に対する温情は、純粋な民族意識の発露だった。監房の古参たちは新入りを慰めてくれ、検事に調査を受ける時の要領も教えてくれた。
(朴準埰、『新東亜』1969年9月号「独立示威に発展した韓日学生の衝突」の中で抜粋)
獄中手記Ⅱ- 両手を挙げた格好で手錠を嵌められ重屏禁へ
二人は懲罰として独房に閉じ込められた。朱唐錫は4サ独房だった。兪致五は3サ16号独房だった。懲罰を受ける部屋なので、両方とも独房の中では特にひどい部屋が割り当てられた。
7月になると独房はとても息苦しく、皮膚病もひどくなった。患部からは膿が出ており、ぶくぶくむくんで歩くことさえもままならなかった。耐え切れなくなった兪致五が看守長に面会して部屋を変えてくれるように頼んだが、看守長は皮肉を言うだけだった。
その時だった。五藤という日本人看守が突然現れて理非曲直を正す間もなく、兪致五の胸ぐらを掴んで玄関の外に連れ出した。玄関の外の右側には広いコンクリートの床があった。そこまで兪致五を連れて行った五藤は、息づく間もなく兪致五を何回か肩で叩いて幾度も殴り倒した。
五藤は柔道5段だった。兪致五は最初は悲鳴を上げたりしていたが、間もなくぐったりのびてしまった。息も絶え絶えに喘ぎながら、体を震わせていた。手紙を書いていた同志たちが尋常ではない悲鳴に驚いてどっと玄関のほうに群がって出てきて、とても目を開けては見られない現場を目撃してしまった。彼らはとても悔しがった。
「この人間穢多野郎!」
特に声が大きいキム・ミンファンが刑務所が吹き飛ばされるほど大きな声で叫んだ。
「兪致五が看守に殴られて倒れてしまった!」
巨躯である朱唐錫が監房の同志たちに向かって続けざまに叫んだ。
「同志たちよ、兪致五が殴られて死んでしまった」
残りの同志たちも喉が張り裂けるほど泣き叫んだ。
各監房から喚声が上がり始めてあっという間に五つのすべての監房に広がった。檻に閉じ込められた若い獅子たちが咆哮し始めたのだ。その時が午前11時半頃だった。8月1日に起きたことなので、7月7日の大闘争が起きてから1ヶ月も経たない時だった。
午後の2時頃には警察に兵力の動員を要請して刑務所の外郭の警備に当たらせた。刑務所の幹部会議では積極的な鎮圧策を使うことに決め、午後の2時から所謂鎮圧作戦が開始された。
数十名の看守が一斉に各監房の門を開けたままにして、学生被告たちに過酷な刑罰を加えた。両手を挙げた格好で手錠を嵌められ、静衣服で胸の辺りを締め付けたりもした。静衣服というのは皮の胴着のようなものだが、水に浸して着せておくと、乾きながら皮が縮まってあばら骨が砕ける感じがするので、息をするのもままならなった。
監房の中に意識朦朧の状態で連れられてきた兪致五は、しばらく経ってから目覚めて痛いことも感じないらしく、大きな叫び声を上げていた。そうすると、監房の門がガタンと開いて看守たちがどっと部屋の中に押し込んできていきなり兪致五の手を捻じ曲げて両手を上に上げて手錠を嵌めてしまった。次の瞬間、兪致五が手錠を嵌めさせて快哉を笑みを浮かべている五藤看守の下っ腹のほうをありったけの力で蹴飛ばした。五藤は「ウッ」という呻き声を出してから腰を曲げて木の床に倒れ込んでしまった。男根と睾丸を蹴っ飛ばされたのだ。
兪致五は見事に恨みを晴らした。しかしそれは瞬間のことだった。隣にいた残りの看守たちが 狂った犬のように殴りかかって拳殴り、足蹴りを浴びせ、兪致五に静衣服を着せて叫ぶことができないように皮帯で口を塞いだ後、重屏禁に閉じ込めた。重屏禁というのは簡単に言うと、真っ暗な暗室のことである。窓も一切なく、電灯もなく、光を完全に遮断した部屋である。兪致五は両手を上に上げた格好で手錠を嵌められ、口には猿轡を嵌められたまま、この漆黒の部屋に閉じ込められたのだ。
(崔聖源、『新東亜』1980年6月号「光州学生運動 獄中闘争記」の中で抜粋)


拷問道具1:両手を挙げた格好で嵌める手錠、皮胴着、皮帯
日本帝国主義の刑吏たちは、収監された学生たちが抗う度に、皮の猿轡で口を塞ぎ、両手を後ろ側にして手錠を嵌め、水気が乾くと縮まって締め付けるようになる皮胴着を着せ、光が完全に遮断された部屋に閉じ込めるなど、暴悪無道な暴行をほしいままに行った。

拷問道具2:薪の木、粉唐辛子の水、錐
学生たちが収監されていた日本帝国主義時代の光州刑務所 
日本帝国主義の警察は、ここで幼い学生たちに対して無慈悲な取り調べを行いながら、暴言、殴打、電気拷問などの蛮行をほしいままに行った。

日本帝国主義時代の大邱刑務所 
醒進会と読書会関連で検挙された学生たちは、1930年11月から翌年の1月まで移送され、ここに収監された。

学生たちが収監中に食べた豆ご飯と塩味の大根汁
しばらく経ってから突然の音にあっけに取られて座っていると、門の下に空けられている穴から黄色いメジュ(味噌、醤油の素になる大豆の麹の塊)を洋銀製の器に入れてすっと入れてくれた。相次ぎ洋銀の器を入れてくれた。具がほとんど入っていない汁の上に白菜の葉っぱが何枚が浮いており、丸く薄く切った大根が2,3個浮いていた。朝食の時間らしかった。朝食が入ってきた穴を覗いてみると、赤い色の囚人服を着て丸坊主の頭をした男がやはり私のほうを覗き込んでいた。
黄色いメジュの塊はおおよそ豆が90%、粟が10%くらい入っているようで、玄米の痕跡が見えた。私は木の床に朝食を並べておいて見つめてから豆ご飯の片端をちぎって口に入れた。砂粒のような感じがした。それを無理やりに飲み込もうとしたが、臭みと肉の脂くさい臭い、魚の腐る臭いが鼻を突き、反吐が出そうにになった。
昼食には食器に黄色いメジュの塊と目ヤニほどの塩が配られた。
(崔聖源、『新東亜』1980年6月号「光州学生運動 獄中闘争記」の中で抜粋)


豆ご飯の豆でユッノリ(韓国にに伝わる日本の双六のような遊び)
刑務所生活の中で最も記憶に残っているのは、食事の時間だった。
一つの部屋に何個しか入らない差し入れをお互いに分けて食べながら、何か外部から連絡してくるメモはないかと探しながら、これからの事件の見通しやほとんど時局について討論をしてその日の日課を終えた。時には乾燥させておいた豆ご飯の豆を使って、ユッ(木製の棒)を作り看守の目を盗んで子供のようにユッノリをしながら憂鬱な気持ちを慰めたりもした。
(朴準埰、『新東亜』1969年9月号「独立示威に発展した韓日学生の衝突」の中で抜粋)